音楽好きの今の話と昔の話

普段目についた音楽について何となく語ります。

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私的名盤考察「さんだる」

先日書いた記事からご覧いただけたらありがたい。

「たま」は私が音楽を聞き始めて初めて聞きこんだバンドである。ある意味私にとってバンドの原点とも呼べる。かといって現在似たようなジャンルの音楽を好んで聞いているかと言えば、答えは「否」といえる。自分が聞いてきた音楽の遍歴の中でも異彩を放っているのが「たま」である。今回「私的名盤考察」としたのはメジャー1stアルバムの「さんだる」。何故この1枚をピックアップしたかと言えば、偶然たまの動画を見かけて耳にしたら、子供の頃に聞き込んだ記憶がフラッシュバックしたのだ。そして先日の記事を書いた、そこからの流れである。大人になってから聞こえ方が違うのが面白い。そういったことで、現代から見えるこのアルバムの形を探ってみたい。今回も同様、名盤考察とは大それたものではないが、紐解いていければよいと思う。

 

まずは概要説明。発売日は1990年7月10日。同日に何かあったわけではないが、この前年の暮れに日経平均株価が過去最高値を叩き出していた。先日34年ぶりに株価最高値を更新したことで少し話題になった時期である。ヒタヒタとバブル崩壊の足音が忍び寄り始めた約半年後にリリースされたのが「さんだる」だ。

1.方向音痴

2.オルガン

3.オゾンのダンス

4.日本でよかった

5.学校にまにあわない

6.どんぶらこ

7.ロシヤのパン

8.さよなら人類 (オリジナル・ヴァージョン)

9.ワルツおぼえて

10.らんちう

11.れいこおばさんの空中遊泳

全部で11曲がオリジナルのバージョン。後年再発盤では追加された曲もあるが今回はオリジナルバージョンで話していきたい。

まず最初の曲は知久さんのユニークな声から始まる「方向音痴」。「かなしい気持ちはとっても不安定」というイカ天のキャッチフレーズはこの歌詞から来ている。この曲から感じる印象は、終盤にかけての異様なコーラスだ。一歩間違えれば悪ふざけと受け取られかねない。その絶妙さと危うさのバランスでこのアルバムが成り立っていると感じさせられる曲から始まるのが実に「たま」らしい。2曲目の「オルガン」も含め、早速不思議な歌詞の世界観に引き摺り込まれてしまう。

知久さんの軽快なマンドリンから始まる「オゾンのダンス」は個人的に好きな曲のひとつだ。後にシングルカットされたが、その8㎝CDは子供の頃購入し何度も聞いた。このマンドリンの音と柳原さんの声が私のイメージする「たま」の音である。2ndの「ひるね」に収録されている「マリンバ」なんかもそれに当てはまる。

4曲目「日本でよかった」へと話は移る。この曲はGこと滝本さんボーカルの曲だが、急に世界観が変わる。たまの二枚目役の滝本さんの曲はどこか暗い。それは悪い意味ではなく、スローテンポの良い曲なのだが、たまの中にいるとそれがかえって異色に見えるのだ。普通のラインナップと言えば語弊があるが、ある意味滝本さんの楽曲はポピュラーなんだと思う。だけれども異質な世界観のたまの楽曲たちの中では前述のように異質に感じてしまう。

「学校にまにあわない」はまたもや不思議な曲。「たまのランニング」こと石川さんの曲で夢の連続性を歌ったことらしいが、確かにそんな歌詞だ。後半のセリフの場面は何度聞いても何とも言えない気持ちになる。その気持ちのまま6曲目「どんぶらこ」で何故か心を落ち着けてしまう。

一旦少しアルバムから逸れた話。それぞれのパートが桁外れに演奏がうまい。だがそれぞれ特にその楽器のスペシャリストという訳ではないようだ。にも関わらずあの有名音楽評論家でイカ天の審査員であった萩原健太さんに「イカ天で登場したバンドで一番演奏が上手かった」と言わせた程。テクニカルな演奏のうえに独特の世界観を持ち合わせてこられると勝てる気がしないだろう。あとは好みになってしまうのだろうが、その好みが大きくわかれそうなサウンドや歌詞というのがまた興味深さに拍車をかける。

話をアルバムに戻したい。7曲目「ロシヤのパン」はイカ天でも歌われた楽曲で、独特なメロディである。「サンバー、サンバー」という石川さんのコーラスが耳にこびりついて離れない。次の「さよなら人類」は最後に回したい。

9曲目「ワルツおぼえて」は滝本さんの2つ目の楽曲。このサビの歌詞「口紅も煮込む朝のスープ」というフレーズが子供ながらに何処か異様に感じて怖かったと記憶している。その流れからの「らんちう」。イカ天で世の中の度肝を抜いたと言われる楽曲。たまらしく誰もそこにいかない音楽性。子供だった当時はあまり印象的な楽曲ではなかった。しかし、今聞くとすごみがわかる。イカ天で「さよなら人類」を2週目に回して1週目で「らんちう」を持って来るのが面白い。多分「さよなら人類」から行けば最初は簡単だったと思う。しかし、敢えてやるのは彼らの余裕がそうさせたと感じてしまう。そのまま最後の曲「れいこおばさんの空中遊泳」へと向かいこのアルバムは終わりを迎える。

ここまでアルバム全曲をサラッと紹介してきたが、最後にこのアルバムにも収録されている「さよなら人類」について触れてみたい。歌詞だけでも考察するに十分値するこの曲は、たまという名前を日本音楽史に強く残すことになったと言える名曲。実は何となくこの曲を通勤中ひたすら繰り返し聞いてみた。何日もかけて50回以上聞いたときにふと気付いたことがあった。特別に何か変わった音の発見があったとかというわけではない。ただ単純に「飽きない」のだ。聞いている間中不思議な感覚に囚われてしまっていた。何回も聞いているのに面白い。メロディラインに何か秘密があるのか、専門的知識があるわけではないのでわからないがとにかく飽きない。併せて歌詞は何回聞いても理解できない。ひとつひとつの言葉の意味はわかるし、曲全体も近未来的な話なのかな?といったうっすらとした世界観も見える。しかし、何度聞いてもフレーズごとの繋がりや不可解さか強すぎて理解が追いつかない。

有名なフレーズ"ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよ"もよくわからない。そもそもピテカントロプスとは何なのか?

ピテカントロプス(ぴてかんとろぷす)とは? 意味や使い方 - コトバンク

少し学術的な話になるが、ピテカントロプスは現在は名称が異なり「 ホモ・エレクトス」というそうだ。150万年前位にあたるようだがその幅は広いのでだいたいだと思っていただきたい。ちなみにジャワ原人がそれにあたると言えば少しはイメージ出来る方もいると思う。そんな太古の人類になるとはどういったニュアンスなんだろう、と考えてみたがなかなか納得のいく答えに辿りつかない。現段階で自分なりに解釈してみたが、確かに人類が木星に着くためにはかなりの技術力が必要だと思う。まだ火星にすら着いてない状況を見ていると、素人なりにまだ何十年も何百年先のことと思えてしまう。そしてそんな何十年先人類は退化してしてしまうのか?確かにそれは間違いではないのかも知れない。実際スマホの進化に合わせて益々脳が退化していってる気がする。技術の進歩とともに人間は退化していってしまっていると取れば木星に着く頃にはそんな人類になってしまうも頷ける。

"アラビヤの笛の音ひびく"

この歌詞のくだりから何となく戦争へと繋がってしまう。意図していない歌詞の流れかも知れないが、どうしても意識してしまう。今も昔も変わらないこと、それは戦争なのかも知れない。次はしばらく歌詞の引用になる。

"あのこは花火を打ち上げて

この日が来たのを祝ってる

冬の花火は強すぎて 

ぼくらの体はくだけちる

ブーゲンビリヤの木の下で

ぼくはあのこを探すけど

月の光にじゃまされて

あのこのかけらは見つからない"

珍しく長々と歌詞の引用をしてしまったが、個人的に好きな部分だ。というか解釈が難しい。「冬の花火」は一般的に空気が冷たく乾燥しているため輝きが強いと言われている。見た目の刺激が強すぎることを表現しているのだろうか。また、ブーゲンビリヤ→ブーゲンビリアアメリカ大陸の熱帯地域原産の木である。そのため寒い地域では冬を越すことに注意が必要になる。つまりこの花火はそこそこ暖かいエリアで見たという感じだろう。話を歌詞に戻すと、結局月の光が眩しいのは何故か?周りに明かりが少ないと読み取れる。つまり自然豊かなエリアで人類が木星に着いた記念の花火を見たけど、そのときの思い出は今となっては過去の事。

"こわれた磁石を砂浜で ひろっているだけさ"

最後に登場するこのフレーズ。つまり「あのこ」は人ですらない可能性を含ませている。もしかしたら「サルにはなりたくない」というフレーズを発している自分もロボットなのかも知れない。そして少しでも人に近づく、ピテカントロプスになるのかも知れない。こうやって考えると退化するという最初の前提から違うのかも知れない、という無限ループに陥ってしまうのだ。何の話だ?と思いながらまた曲を最初から聞いてしまう。実に深い楽曲だ。

と、ここまで勝手に解釈してみたが、本当の答えは作った人にしかわからない。そんなことを思いながらまたこれらの楽曲を聞いていきたい。

私のブログは音楽に触れる「きっかけ」を作り出すために日々記している。今回の話でたまの「さんだる」を1回聞いてみようと思って頂ければこの上ない。