音楽好きの今の話と昔の話

普段目についた音楽について何となく語ります。

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文化の日だからCulture Club。「カマキリ」で笑ったあとに観る『カーマは気まぐれ』のMVと深み

11月3日、文化の日。1946年のこの日に日本国憲法が公布され、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」という趣旨で制定された祝日だ。ちなみに11月3日は明治天皇の誕生日(明治節)でもあり、時代を超えて節目の日でもある。

……なんて堅苦しい解説はここまでにして。「文化」といえば、Culture(カルチャー)。音楽好きとして「カルチャー」と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、やっぱりカルチャー・クラブ(Culture Club)だ。そしてカルチャー・クラブといえば、あの曲。『Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)』(1983年)。

……いや、正直に白状しよう。今、私の頭の中で鳴っているあのイントロとサビは、先日のキングオブコントのせいだ。

そう、見事王者に輝いたジェラードンのコント。西本さんが奇妙な動きでカマキリのマネをしながら、あのフレーズを口ずさんでいる、あの脳裏に焼き付いて離れないシュールな姿だ。

一度あれを見てしまうと、街やラジオで『Karma Chameleon』が流れるたびに、脳内で西本さんのカマキリ姿がチラついて仕方がないという素晴らしい(?)後遺症に悩まされている。

しかし、だ。大爆笑したあとにふと思って、久しぶりにこの曲をじっくり聴き直し、さらにオフィシャルMVまで見返してみたのだが……やっぱりこの曲、そして彼らはとんでもない魅力を放っているのだ。

川辺の風景と「赤、金、そして緑」に隠されたメッセージ

あらためてMVを観てみると、そこには19世紀のアメリカ開拓時代を思わせる、どこかノスタルジックな川辺の風景が広がっている。

川を行く船、ストローハットをかぶった人々、そして人種もジェンダーの枠をも軽々と飛び越えた群衆。ボーイ・ジョージの圧倒的な存在感を中心に、最後はみんなで楽しそうに行進していくあのピースフルなエンディング。観ているだけで、なぜか胸が熱くなる温かさがある。

そして歌詞の中に出てくる「Red, gold and green(赤、金、そして緑)」というフレーズ。これはレゲエの象徴(ラスタカラー)でもある色彩であり、多様な文化やルーツがごちゃ混ぜになったカルチャー・クラブというバンドのアイデンティティそのものを表しているようにも思える。

明るいモータウン・ビートに隠された「切なさ」

そんなノスタルジックでハッピーなMVと軽快なカントリー/モータウン調のビートの裏腹に、歌詞を追いかけてみると、実はなかなかにシリアスだ。

原題の「Karma(カルマ)」は、仏教やヒンドゥー教でいう「因果応報」「業」のこと。カメレオンのように周りに合わせて自分の色(本心)を変え、ウソをつき続けている相手に対して、ボーイ・ジョージは切なく語りかける。

"You're my lover, not my rival"

(君は僕の恋人だろう、ライバルなんかじゃない)

「自分に嘘をつき続けて態度をコロコロ変えていたら、いつかそのバチ(カルマ)が当たるよ」という、誠実になれない人間への切ない警告。

最高にキャッチーなメロディと陽気なMVの裏で、実はちょっぴりビターな人間模様が描かれている。このギャップこそが、80年代ポップスのたまらない魅力なのだ。

ビジュアルの衝撃と「文化」を塗り替えたボーイ・ジョージ

当時、妖艶なメイクとド派手な衣装で世界中を虜にしたボーイ・ジョージ。「男なのか女なのか」「アイドルなのか本格派シンガーなのか」という既存のカテゴリーを爽快にぶち壊していった。

アイルランド系、ユダヤ系、ジャマイカ系など、多様なバックグラウンドを持つメンバーが集まったからこそ名付けられたバンド名=「カルチャー・クラブ」。性別も人種もジャンルも超えて、極上のポップ・ミュージックで世界を席巻した彼らの存在こそ、まさに80年代における最高にポップな「文化革命」だった。

お笑いから入る洋楽の楽しさ

お笑いコントの強烈なインパクトから始まって、ふと開いたYouTubeでMVのノスタルジックな風景に癒やされる。

シュールなカマキリのマネという、最高にくだらない(褒め言葉!)入り口から入ったって、音楽の深みへたどり着くルートとしては最高じゃないか。ジェラードンのおかげで、久しぶりにカルチャー・クラブのMVを観返し、アルバムを引っ張り出して聴く最高のきっかけになった。

文化の日の夜。今夜はカマキリの余韻と、MVの温かい風景に浸りつつ、ボーイ・ジョージのソウルフルで優しい歌声に耳を傾けたい。やっぱり、音楽もコントも、最高だ。では最後にご一聴。

 

 

カーマは気まぐれ

 

 

違和感が残すゾワゾワの正体──AI音楽の「不気味の谷」は、新しい表現の扉を開くか?

最近、AIが生成・歌唱した楽曲に触れる機会が増えてきた。完全な肯定派でも、頭から否定する拒絶派でもない私にとって、AI技術の進化はどこか複雑な眼差しで見つめざるを得ない領域だ。

そんな中、YouTubeで偶然耳にしたある楽曲が、妙に耳から離れなくなってしまった。それが、歴史上の人物をテーマにしたチャンネル「レキチューン!」のマリー・アントワネットを題材にした楽曲、『マリー・アントワネット - 私、ケーキなんて言ってない / THE FIRST TAKE風』(およびそのオリジナルの音源)だ。

史実のエピソードを絶妙にポップな楽曲に落とし込んでいるセンスそのものも非常に面白いのだが、それ以上に私の胸をざわつかせたのは、歌声の端々に感じる「不気味の谷(アンキャニー・バレー)」だった。今回は、この「違和感」を入口にして、AI音楽が持つ可能性と、そこに見え隠れする危険性について少し深く考えてみたい。

1. マリー・アントワネットの楽曲から受けた「ゾワゾワ感」と「不気味の谷」

ベルサイユの厳格な宮廷マナーゆえに寒さのなか肌着のまま待たされる「全裸でフリーズ」の愚痴から始まり、巨大な船の模型を頭に乗せた奇抜なヘアスタイル、プチ・トリアノンでの「村娘ごっこ」、そして有名な「ケーキを食べればいいのに」という冤罪に対する必死の弁明――。

楽曲として非常にキャッチーでありながら、耳を澄ますと、ボーカルのニュアンスやブレス、音の輪郭にどうしようもない「生々しさと無機質の同居」を感じる。人間が歌っているようで、実はそうではない。この「人間を完璧に模倣しようとして、わずかにズレた結果生じる不気味さ」こそが、AI音楽特有の不気味の谷だ。

かつてロボット工学やCGの世界で語られてきた「不気味の谷」は、一般的に「避けるべきマイナスの違和感」とされてきた。しかし、音楽の世界において、この違和感は奇妙な「フック(引っかかり)」として機能している。完璧ではないからこそ、聴き手の耳を強制的に惹きつけ、妙なゾワゾワ感を残す――これ自体が、音楽における一つの新しい質感(テクスチャー)になり得るのではないか。そんな予感を抱かされた。

2. 「不気味の谷」がもたらす新しい可能性と、多角的な「有用性」

では、このAI特有の質感や技術は、音楽やコンテンツ制作の現場においてどのような有用性を持っているのだろうか。単なる「人間の代用品」という枠組みを超えて、いくつかの可能性が見えてくる。

 歴史や文脈の「音楽的トランスレート(翻訳)」

歴史の教科書に書かれた堅苦しい事実やエピソードは、文字だけではなかなか感情移入しにくい。しかし、それを「AI×ポップス」という形態に落とし込むことで、当時の人物が抱えていた孤独や焦燥感、狂騒が、現代の私たちの耳にダイレクトに響く「生きた体験」に変換される。これは教育やエンタメの垣根を軽やかに越える、非常に強力なアプローチだ。

 クリエイターの「アイデアのプロトタイプ化」と表現の拡張

人間がゼロから構築するには時間と労力がかかる「特定の時代背景×特定の音楽ジャンル」という複雑なコンセプトを、AIを触媒にすることで一瞬で具現化できる。クリエイターにとっては、頭の中にある抽象的なアイデアの輪郭を素早く確かめ、そこからさらに人間の手でブラッシュアップしていくための「最高の相棒」になり得る。

3. 光の裏側に潜む「危険性」と倫理的課題

一方で、こうした技術が急速に普及していくことへの「懐疑心」を忘れるわけにはいかない。この手軽さと無機質なリアリティの裏側には、無視できないリスクや危険性が潜んでいる。

 「人間らしさ」のコモディティ化と消費

人間の歌声に宿る「揺らぎ」や「かすれ」、泥臭いエモーションは、本来その人の人生やバックグラウンドの証明でもある。しかし、AIがそれらをあまりにも簡単に、しかも高精度にシミュレートしてしまうことで、人間の表現が持つ「重み」や「文脈の価値」がすり減り、単なる消費財としてコモディティ化していく恐れがある。

 

マリー・アントワネットが抱えた壮絶な生涯や時代のうねりが、キャッチーな3分間のネットコンテンツとして消費し尽くされるとき、私たちは歴史の重みを味わっているのか、それとも単に「刺激的なミーム」を消費しているだけなのか。テクノロジーの冷徹さが、人間の深い痛みを「お手軽なエンタメ」に均してしまう危険性は常に隣り合わせだ。

結びに代えて:懐疑的だからこそ、面白がる

AIが作る音楽に対して、私たちが抱く「なんだか気味が悪い」「でも、なぜか耳に残る」という感覚。そのゾワゾワ感の正体は、技術の未熟さに対する拒絶反応であると同時に、「人間と機械の境界線が揺らいでいる現場を目撃してしまったことへの戸惑い」なのだと思う。

完全な賛美も、全否定も必要ない。「この違和感は何だろう?」と耳を澄ませ、その背後にあるストーリーや、人間が作る音楽との違いに思いを馳せること自体が、これからの音楽の新しい楽しみ方の一つになっていくのかもしれない。さて、あなたはこの「不気味の谷」から響く歌声を、どう聴くだろうか。では最後に『マリー・アントワネット - 私、ケーキなんて言ってない / オリジナル』をご一聴。

 

「面白いことをしてみる」の先にあるもの〜AIR JAM 2026とSTAY GOLD〜

公開からしばらく経って、ようやくあの映像を見た。今さら見たのは、みんなが待ち遠しくてしょうがない巨大なイベント『AIR JAM 2026』が近づいてきたからかもしれない。YouTubeで公開された『Indeed Documentary of Hi-STANDARD』。

ハイスタと妻夫木聡。それぞれの分野で一時代を築いた者同士の対談だ。とは言っても、俳優の妻夫木聡はかつてのAIR JAM '98を観客側で目撃し、ガッツリとハイスタのコピーバンドをやっていたキッズの一人。動画内では、当時の難波さんの発言について熱く触れるシーンもあり、そのリスペクトの深さに胸が熱くなる。

そんな彼らのインタビューを見ている中で、恐ろしいくらいに共感してしまったシーンがあった。画面に映し出された、横山健のこの言葉だ。

「綺麗な作品を作ろうとしてなくて」

「すごいもん見ちゃったって思わせたい」

私自身、いま仕事で感じていること、そして本当にやりたいことを一瞬で言語化してくれたような気持ちだった。綺麗でまとまりのある仕事をやることはもちろん素晴らしいし、自分でもできる限りそう努めている。だけど、私が本当に目指しているのは後者の「すんごいもの見ちゃった」と思わせる領域だ。

実は最近、自分がやろうとしている仕事について「面白いことをしてみる」と口癖のように言っている。だからこそ、あの言葉が余計に刺さったのかもしれない。ただ、それだけのことなんだけど、ものすごく腑に落ちたのだ。もちろん「言うは易く行うは難し」。若い頃もうまくやろうと模索するけれど、正攻法では到底敵わない。じゃあ器用にうまいところを狙ったって、失敗するのは当たり前だ。だけど自分も歳を重ね、これまでの経験からその「うまいところ」のツボや勝負どころが、少しずつ感覚として分かってきた気がしている。

残念ながら、私自身は今回のAIR JAM 2026の現地へ行くことはできない。けれど、手元にはDHC(Dance Hall Crashers)のTシャツと、ホルモンのピックがある。それらを眺めながら、遠くからイベントの大成功を心から願っている。

現地に行く人たちには、めちゃくちゃ楽しんできてほしい。きっと、あの場所で「すんごいもん見ちゃった」って心から思えるはずだから。では最後に、いつだって心をあの頃に戻し、背中を押してくれるこの曲をご一聴。

 

 

STAY GOLD

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10月最後の夜に知った声 ── TOMOO「Ginger」「Super Ball」

10月31日。ハロウィンの夜だが、街の喧騒から少し離れて、静かに過ごしたくなる時間帯だ。明日からは11月。カレンダーもいよいよ最後の2枚になり、本格的に秋から冬へと季節が移り変わっていく。

そんな節目の夜、YouTubeをなんとなく眺めていたら、アルゴリズムの導きで「TOMOO(トモオ)」というアーティストの存在を初めて知った。恥ずかしい話である。

すでにフェスやメディアなど各所で高く評価されている方なので、単にこちらのアンテナが追いついていなかっただけなのだが、ふと上がってきた「Ginger」のMVを再生してみた。

軽快でポップなピアノのイントロ。けれど、一聴して何より耳に残ったのは彼女の「声」だった。高音で華やかに張るタイプではなく、低めで深みのある声質。可愛らしさや軽快さのあるメロディの裏側に、ふっと凛とした静けさや、どこかシリアスな影のようなものが同居している。ただのポップスにとどまらない、引き締まった質感と芯の強さを感じる声だ。

続いて聴いた「Super Ball」も、疾走感のあるサウンドでありながら、歌声の軸がブレずにしっかり真ん中に存在している。今これだけ多くの人に聴かれている理由が、素直に納得できた。

世間で評価されている才能を後から知ると、「なんで今まで聴いていなかったんだろう」と少し恥ずかしくもなる。けれど同時に、こうしてアルゴリズムのおかげで良い音楽に巡り合えた瞬間はやっぱり素直に嬉しい。

10月から11月へと向かう今夜のような季節の境目は、夜の空気に少し冷たさが混じり始める。そんな静かな時間帯に聴く彼女のシリアスで落ち着いた声は、驚くほどしっくりと馴染む気がした。

明日からの11月、少し冷えた夜のドライブや一人で過ごす時間に、他の楽曲もゆっくり掘り下げて聴いてみようと思う。では最後に「Ginger」をご一聴。

 

 

 

Ginger

Ginger

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100円コーナーのタイムマシンと、1993年の大黒摩季に胸をぶち抜かれた話。

先日、中古CD店の100円コーナーをガサゴソと物色していた時のこと。プラケースの山の中から、思わず手が止まる1枚と目が合った。大黒摩季『DA・DA・DA』(1993年)。  思わず「うわ、懐かしっ…」と声が出そうになった。

子供の頃、兄貴から借りてカセットテープに数曲ダビングし、擦り切れるほど聴いていたあの作品だ。迷わずレジへと持っていき、ホクホク顔で店の外へ出た。待ちきれず、買ったばかりのCDをそのまま愛車のCDスロットに突っ込む。

「まあ、知ってる曲が数曲入ってるくらいかな」なんて軽い気持ちでアクセルを踏み込んだのだが——数分後、俺は運転席で鳥肌を立てることになる。

◇

まず車内に響き渡ったのは、ヴォーカルの圧倒的な「破壊力」だ。

近年の作品でもパワフルで最高な彼女だが、1993年当時の声は、とにかく「尖って」いる。綺麗に磨かれたクリスタルというよりは、研ぎ澄まされた刃物。スピーカー越しなのに、声の密度とハイトーンの圧がそのまま鼓膜を突き破って胸に刺さってくるのだ。

当時はメディア露出が極端に少なく、「実はCGなんじゃないか」「ボーカルデータを合成してるんじゃないか」なんて都市伝説まで本気で囁かれていた時代。だが今聴けば納得だ。人間離れしたピッチの正確さと、あの圧倒的な声量。都市伝説も生まれるわけである。

そして、今回車を走らせながら一番の発見だったのが「方向性のブレなさ」だった。アルバムを聴き進めていくと、ふと気づく。

「あれ? このラテンっぽいグルーヴと情熱的なアプローチ……近年の作品でもめちゃくちゃ聴くやつじゃないか?」

そう、ブレイク真っ只中の1993年の時点で、彼女のストリート感覚、ファンクやハードロックの骨太な要素、そして情熱的なラテンパーカッションのグルーヴは、すでに完成されていたのだ。その最たる例が、名曲『チョット』である。  

織田哲郎氏による歌謡曲の哀愁を帯びたメロディでありながら、バックで跳ねるあのラテン〜アコースティックなグルーヴとフラメンコ調のカッティングギター。そしてそこに襲いかかる大黒摩季の突き刺さるようなボーカル。

近年のライブや作品で見せる「情熱的なラテン歌謡」の原点は、間違いなくここにあった。時代に合わせてスタイルを変えたのではなく、「最初から自分の好きな最強の武器をフル装備していた」という事実。ブレなさすぎて、もはや男前である。

◇

さらに、CDの裏ジャケットや盤面を見ていて「おや?」と思ったことがある。レーベル表記に踊る「TOSHIBA EMI / TM FACTORY」の文字。

「あれ、大黒摩季ってビーグラム(B-Gram RECORDS)じゃなかったっけ?」

そう、今でこそ「ビーイング=B-Gram RECORDS」のイメージが強いが、当時はまだその専用レーベルが存在せず、彼女の最初期の作品は東芝EMI(TM FACTORY)からリリースされていたのだ。この『DA・DA・DA』が大ヒットした後の1993年11月にB-Gram RECORDSが設立され、後にこのアルバムも移籍・再発されることになる。  

90年代メガヒット時代の前夜、まさに「一人のモンスターシンガーが時代をこじ開けていく過渡期」の熱量が、この東芝盤の『DA・DA・DA』にはギュッと凝縮されている。大人になった今だからこそ、こういうレーベル史の背景も含めてニヤニヤできてしまうのが面白い。

◇

子供の頃、兄貴から借りたCDからテープのインデックスに手書きで曲名を書いて聴いていたあの頃は、「流行りのCD」という記号でしかなかった。

しかし、大人になった今の耳でフルアルバムとして聴き直すと、シングル曲の陰に隠れた名曲たちのポテンシャルや、彼女のヴォーカリストとしての真価がビシバシ伝わってくる。

100円コーナーで見つけた小さなプラスチックの盤は、単なる思い出の品ではなく、1993年の熱量へ一瞬で連れて行ってくれる極上のタイムマシンだった。

声の鋭さに打ちのめされ、グルーヴの不変さにニヤリとする。CDを掘る面白さって、やっぱりこれだからやめられない。では最後に「チョット」をご一聴。

 

チョット

チョット

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【謎はすべて解けた?】椎名林檎『党大会 令和八年列島巡回』——七瀬美雪から辿り着いた「音」の密室劇

画面の向こうで、またひとつ至高の映像が放たれた。「少女ロボット」。ともさかりえ。あのイントロが鳴った瞬間、脳内に響いたのは「はじめちゃん!」というあの懐かしい声だった。

90年代の金字塔『金田一少年の事件簿』。堂本剛演じる金田一一の傍らで、甘酸っぱくも切ない存在感を放っていた初代ヒロイン・七瀬美雪。あの時代の空気を鮮烈に焼き付けた彼女に、椎名林檎が書き下ろした極上の名曲こそが「少女ロボット」だ。

YouTube画面に踊るそのタイトルを眺めながら、私は密かに「事件」の予感を抱いていた。まだ手元にパッケージはない。だが、次々とアップされるLive Clipと、公開された概要欄という名の“現場の証拠品”を検証していくうちに、ひとつの確信へと辿り着く。

「……謎はすべて解けた。」

今回の映像作品が、なぜこれほどまでに音楽ファンの心を揺さぶるのか。そのトリック(凄み)の裏側が、スペックから鮮やかに浮かび上がってきたのだ。

概要欄(証拠品)が物語る、完璧すぎるアリバイ

平成二十五年(2013年)の“神山町大会”以来、実に13年ぶりに「党大会」のタイトルを掲げた今ツアー。検証すべきポイントは、徹底的に作り込まれたその「環境と演奏家たち」だ。

 「音響に定評のあるホールを厳選」

大ハコのドームやスタジアムといった派手な仕掛け(演出)に頼るのではない。純粋に「音の響き」だけが逃げ場なく充満する極上の空間を選び抜いている(収録は5月1日 東京・すみだトリフォニーホール)。

 「手練れ11人の共犯者たち」

近年のツアー/レコーディングを固める強固なバンド編成[石若駿(Dr)、鳥越啓介(Ba)、名越由貴夫(Gt)、林正樹(Pf/Kb)]に、村田陽一(Trb)率いるホーンセクション[西村浩二(Trp)、山本拓夫(Sax/Fl)]、そして吉田宇宙カルテット[名倉主(2nd Vn)、奥田瑛生(Va)、林田順平(Vc)]。過剰な装飾という名の「仕掛け」を一切排除し、響きの良い密室ホールで、熟練の演奏家11人が放つ生の音と空気感だけを密閉する。まさに、音の純度と密度だけを極限まで高めた「音響の密室劇」だ。

「少女ロボット」の映像が示す、圧倒的密度の予感

先行公開された「少女ロボット」の Live Clip を観るだけでも、その事件性は明白だ。

かつてともさかりえが歌い、私達の記憶の中に大切に置かれていたあの名曲が、すみだトリフォニーホールの極上の響きと11人の手練れによって、実に艶やかで有機的なサウンドへと昇華している。この音の密室劇、見逃すわけにはいかない。

手元に届くのが待ち遠しくてたまらない。全国8会場18公演におよぶ“列島巡回”の空気、そして実演のすべてが凝縮されたこの映像作品。

パッケージを開け、ディスクをセットした瞬間、私達はどれほど美しく濃密な「音楽の熱量」を浴びることになるのだろうか。胸の高鳴りを抑えきれないまま、今日もまたYouTubeの再生ボタンを押してしまう。では最後に「少女ロボット」ご一聴。

 

 

 

 

10月最後の夜に散歩をする理由——クリフォード・ブラウンのトランペットと、21歳のクインシーが仕掛けた罠

10月も終わりに近づくと、日が落ちた後の空気ががらりと変わる。昼間の余韻が消え、シャツ1枚では肌寒さを覚えるような、あの特有の寂しげな風。街ではハロウィンの浮かれた空気が流れているけれど、私自身はといえば、賑やかな喧騒よりも、この季節の変わり目の少しひんやりとした静けさに惹かれてしまう。そんな夜、無性に聴きたくなる音楽がある。

私はジャズというジャンルに明るくない。好きなアーティストを聞かれたら、アニタ・オディかハリー・コニックJr.を挙げることにしている。そう言うと、界隈の方たちからは「それはもうポップス寄りでしょう」と苦笑いされるかもしれないが、そうなのかもしれない。

自分の中で一番好きな日本ジャズを挙げるなら、大野雄二氏の『ルパン三世』であり、菅野よう子氏の『カウボーイビバップ』だ。「アニメのサントラやん」と言われてしまうだろうが、私にとってのジャズの原体験は、理屈抜きにカッコよく、ハードボイルドで、疾走感と哀愁が同居するあの世界観にある。

そんな「本格ジャズ通」とはほど遠いはずの私が、この10月終わりの肌寒い夜に、どうしても抗えなくなる一曲がある。ヘレン・メリルの『You'd Be So Nice to Come Home To』(1954年)だ。あの曲のイントロを聴いて、撃ち抜かれない人がこの世にいるのだろうか?

針を落とした瞬間(あるいは再生ボタンを押した瞬間)、クリフォード・ブラウンのトランペットの一音目が、夜の静寂を静かに切り裂く。あの数小節のフレーズを聴くだけで、背筋がゾクゾクとして膝から崩れ落ちそうになる。

みんな口を揃えて「ヘレンの“ニューヨークの溜息”と呼ばれるハスキーボイスが素晴らしい」と言い、「ブラウニー(クリフォード・ブラウン)のトランペットのイントロが神がかっている」と讃える。もちろん私だって同感だ。アニメのスクリーンの向こうで流れていたあのハードボイルドな空気感が、そっくりそのままこの1曲に凝縮されているのだから。だが、この曲の「事件性」はそれだけではない。

ジャズ好きの友人との雑談で少しだけ知ったかぶりをするなら、私はあえてこう言いたい。「あのイントロの本当の黒幕は、クインシー・ジョーンズなんだよ」と。

そう、後にマイケル・ジャクソンの『Thriller』をプロデュースして世界を席巻する、あのクインシー・ジョーンズだ。このヘレン・メリルの歴史的名盤を録音した時(1954年12月)、クインシーは弱冠21歳の若きアレンジャー(編曲家)だった。

原曲のコール・ポーターが書いた『You'd Be So Nice...』は、もともともっと軽快な楽曲である。それをあえてこの重厚で濃密なミディアム・スローに落とし込み、ブラウニーの温かいトランペットを前奏に配置して、ヘレンのスモーキーな歌声を完璧な「演出」で迎え入れたのは、21歳のクインシーの企みによるものだ。

圧倒的な超絶技巧で知られる天才ブラウニーに「あえて吹きすぎさせない」という最高の引き算を行わせ、ヘレンの溜息を一番美しく響かせるための「劇伴(サントラ)」を仕立て上げた。

ルパンやビバップの音楽に痺れてきた私のような人間が、この1954年の録音に一発で持っていかれるのは、ある意味で当然なのだ。私たちはヘレンの声とブラウニーのトランペットを通して、クインシーが描いた最高にシネマティックなドラマにノックアウトされているのだから。

1954年12月の録音から、わずか1年半後の1956年。クリフォード・ブラウンは25歳という若さで自動車事故によりこの世を去ってしまう。

この奇跡のような面々が同じスタジオに集まり、クインシーの仕掛けた完璧なシナリオの上で、あのイントロが吹き込まれたこと。

タイトルを直訳すれば、「あなたが家に帰ってきてくれたら、どんなに素敵だろう」。どこか人恋しくなる10月最後の夜。冷えた空気を突いて響くあの温かなトランペットの一音と、寄り添うようなヘレンの溜息。それさえあれば、他には何もいらないような気がしてくる。

ジャズの難しい理論なんて知らなくてもいい。今夜もまた、この1曲を胸に抱えて、10月終わりの街を少しだけ遠回りして帰るのだ。では最後にご一聴。